墳丘上に橘諸兄公旧蹟の大きな石碑がと供養塔が立てられています 撮影日;2015.07.02
周囲は竹林に開墾されていて、古墳は原形を留めていません
規模や墳形も不明です
昭和49年に調査され、発見された埴輪から6世紀初期の築造と推定されています
埋葬施設も不明です
字名から南開古墳とも呼ばれる?ようです
墳頂は平になっていて、井堤保勝会の「井手左大臣橘諸兄公墳の碑」が立てられています
この付近には、6世紀から7世紀初期(飛鳥時代から奈良時代にかけて)の古墳群が多く在ったようです
近代以降、孟宗竹の栽培が盛んになり、墳墓は破壊され、遺構の確認はできなくなっています
橘諸兄公由緒 =現地の石碑より=
公は天武13年(684)生。父・美努王、母・県犬養三千代、敏達天皇五世の孫、光明皇后の異父兄である。 本の名は葛城王、のち母の氏を賜って橘諸兄、井手に住して井手左大臣と号す。
天平10年(738)より右大臣、同15年(743)左大臣となり、天平勝宝8年(756)致仕するまで奈良時代の全盛期を首班として生きた大官である。
この間に聖武天皇の相楽別業(諸兄の井手にあった別荘)・玉井頓宮への行幸・恭仁京遷都・大仏建立・開眼供養などがあった。
また、この地には別業のほか、井堤寺を建立。
清涼な玉川を愛し山吹を植え続けたので、多くの文学に見える「名所井手の里」を生み出した。
聖武上皇崩御翌年の天平勝宝9年(757)正月6日薨す。齢74。
井墳墓の近くに井手火山灰層という地層が崖地に露呈しています
150万年前(新生代、第四紀、更新世)、長野で起きた大規模な火山噴火により降灰があり、それが堆積したものだそうです
★所在地;綴喜郡井手町井手南開
★交通;JR玉水駅より 徒歩20分
★駐車場;スペースあり
★見学;自由
★問合せ;