村上義光公は、南朝の大塔宮護良親王の身代りとなって割腹した人です 撮影日;2015.07.25
時は、元弘3年(1333)吉野城が落ちる時
その義光の首を検分した北条方が大塔宮でないことを知り
ここに捨てられたのを里人が弔って墓としたと伝えられます
不動坂を登りつめた丘の上に立つ宝篋印塔が義光公の墓です
墓の右脇に、天明3年(1783)に大和高取藩士・内藤景文によって建立された「村上義光忠烈碑」が有ります
★所在地;吉野郡吉野町
★交通;近鉄吉野神宮駅より 徒歩40分
★駐車場;吉野山下千本駐車場がすぐ近くです
★見学 入場料;自由
★問合せ;
吉野神宮から1kmほど登っていくと有ります
村上義光公は信濃源氏の末裔で、息子の義隆公も護良親王に殉じました
村上義隆公の墓所は勝手神社から南西約1.5kmの路傍に有ります
太平記によりと、吉野城が落ちようとする時、護良親王を落ち延びさせるべく義光公は親王の鎧兜を半ば奪うがごとく我が身につけ、高櫓に仁王立ちにて「吾こそ親王なり。天照太神御子孫、神武天王より九十五代の帝、後醍醐天皇第二の皇子一品兵部卿親王尊仁、逆臣の為に亡され、恨を泉下に報ぜん為に、只今自害する有様見置て、汝等が武運忽に尽て、腹をきらんずる時の手本にせよ」と言われ親王の身代わりになって壮烈な自刃を遂げたとの事です
今生の別れに際して、護良親王は「私がもし生き延びられたら、お前の後生を弔はう。共に斃れた其の時は、冥途の旅路にも伴ふぞ」と仰せになったそうです
この時、息子の義隆は護良親王とともに行きますが、吉野から高野山に向かう街道を防ぐためとどまって奮闘しますが、力つきて割腹したと伝えられています
時は元弘3年閏2月1日(1333年4月15日)で、わずか18歳だったそうです