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Channel: 奈良の名所・古跡
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「15A-76」鏡皇女陵≪再訪≫

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鏡王女墓
 「延喜諸陵式」に載る『鏡女王・押坂墓』です 撮影日;2014.11.20

 径15mの円墳です
 上円下方墳との説もあるようです

 一見、宮内庁管轄のように見えますが、今は地元の忍阪区で管理されています
 その為、墳丘への立ち入りは可能です
 発掘調査がされてないので詳細は全く不明です

 築造時期も特定できませんが、風水思想に基づいた終末期古墳の特徴をそなえています

鏡王女墓前 鏡王女墓墳丘

 鏡女王は、近江国野洲郡鏡里の豪族・鏡王の娘で、万葉歌人として有名な額田王の姉にあたるとされています
 はじめ天智天皇の妃で、のちに藤原鎌足の妻となっているようです

鏡王女万葉歌碑 鏡王女万葉歌碑説明版

 「舒明天皇陵」前の小川の中に鏡王女・万葉歌碑が有ります
 犬養孝氏揮毫による
 『秋山の 樹(こ)の下隠(がく)り逝(ゆ)く水の  吾(われ)こそ益(ま)さめ み思ひよりは』(巻2-92)
 この歌は、皇太子であった中大兄皇子(のちの天智天皇)が鏡女王に送った歌「妹が家も継ぎて見ましを大和なる大島の嶺に家もあらましを」に答えた一首であるといわれています

★所在地;鏡王女墓参照


石位寺境内の石像物

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石位寺境内の南東部石像物
 ≪南東部石碑群≫
 4基の石碑は、右から3基は「西国三十三所巡礼供養碑」
 西国三十三所観音霊場を供養した記念碑的要素が強いものです
 右より戦国末~江戸前期のもので法名を刻み、二つ目は江戸時代初期・正保4年(1647)で物故者供養、三つ目は寛文4年(1664)で俗名で構成されたものです
 これらの石碑は、もともと境内の北西隅にあったもので、昭和53年の建て直し時に移設されたものです
 左端の石碑は、庚申講衆碑で、大型ですが浅い梵字の形状、半肉彫りですが形骸化した蓮弁などから16世紀後半頃の戦国末から江戸前期のももと推定できます
 これは昭和28年の国道165号線開通による現・庚申堂の移転に伴い、移設されたものです

石位寺境内の北西部石像物
 ≪北西部石像物群≫
 右端の石碑は「阿弥陀名号供養碑」で、通常は「南無阿弥陀仏」と記されるのですがこの石碑は供養碑として得意な表現となっています
 戦国時代・天文10年(1541)のものです
 右から3基目は「六十六部 供養塔」と考えられ、戦国時代・公治2年(1556)に法華経を66ヶ国の霊場に奉納し無事満願を迎えられたことを記念して建てられたものです
 他にも。五輪塔火輪の15~16世紀のものや、江戸時代の墓標や五輪塔板碑もあります

★所在地;桜井市忍阪870
★交通など;石位寺参照


 撮影日;2014.11.20
石位寺境内の石像物説明版

忍坂山口坐神社の大クスノキ

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忍坂山口坐神社の大楠
 樹齢約600年と言われる楠です 撮影日;2014.11.20

 幹周7.92m・樹高約30m
 桜井市指定天然記念物です
 巨樹前の標柱には「押坂山口坐神社のクスノキ」となっています

忍坂山口坐神社の大楠幹 忍坂山口坐神社の大楠根元

 根元から2mの所で大きく二つの大枝に分かれています
 空洞もなく樹勢は至って良好
 このクスノキは伝承では二代目
 初代の楠は応永4年(1397)、室町幕府第3代将軍足利義満が京都に金閣寺を建てる際に、天井板を一枚張りにするため当社にある楠を供出されたそうです
 その跡に植えた二代目が現在の楠といいます 

★所在地;桜井市大字赤尾42
★交通など;忍坂山口神社参照


 境内北側に大きな杉の木も有ります
 忍坂山口坐神社のご神木です
 元のご神木は枯れたと伝えられるので、この杉も2代目??
 上部はかれている部分も有りますが、遠くからでも目立ちます
忍坂山口坐神社の神木 忍坂山口坐神社の社叢

ちご石「神籠石」

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神籠石
 神武天皇ゆかりの大石です 撮影日;2014.11.20

 この石は、神武天皇がこの地にいた蝦夷梟師・八十建(ヤソタケル)を討つとき
 この石に匿れ、石垣をめぐらし楯とした大石という伝説が有ります

 火の見やぐらと半鐘は、昭和35年頃に生根神社境内より移設されたものです

 元は神籠石(じんごいし)とだったとされ、今は訛って「ちご石」と呼ばれているようです

神籠石半鐘 神籠石説明版

 『神籠石』
 「こうごういし」「こうごいし」「ひもろぎいし」とも言われています
 多くは、聖域を示すモニュメントとか古代山城という説もあり、いずれも聖域を示すようです

 まだ櫓が置かれて無い時、昔の男子は素手で正面からこの巨石に登り、一畳敷きの上で大の字になれば一人前の証とされました
 登りはよいが降りるにはかなりの勇気がいったようです

★所在地;桜井市忍阪781付近
★交通;JR・近鉄桜井駅より バスで「忍阪」下車 徒歩3分
★駐車場;なし
★見学;自由
★問合せ;

旧田中家住宅≪再訪≫

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旧田中家住宅
 「法蓮造り」と呼ばれる農家建築です 撮影日;2014.11.22

 法蓮造りは、町家風の農家です
 江戸時代の法蓮村は、市街地である奈良町に隣接する農村でした
 村内の農家は町家のように奥行きが深い宅地に、隣の家と軒を並べて建っていました
 住宅の正面には町家のように法蓮格子と呼ばれる丸太の格子を設けたのも特徴です

 旧田中家住宅は、「法蓮造り」として現存最古と言われています
 建築年代は18世紀末~19世紀初めごろと推定されます

旧田中家住宅カマド 旧田中家住宅ナカノマ

 昭和57年に市指定文化財に指定
 同年に解体され部材を保管
 平成2年、現在地に移築復元されました

 建物の北半分はザシキなどの部屋で、三つの部屋が一列に並び、建物表側からザシキ、ナカノマ、サンジョウノマと続く
 南半分はニワ
 カマドを中心に牛小屋も設けられています 

★所在地;奈良市五条町204-1(都跡公民館に隣接)
★交通など;旧田中家住宅参照


 同敷地に「昔のくらし館」が有ります
昔のくらし館
 失われつつある民俗資料(生活文化資料)を展示しています
昔のくらし館民俗資料 昔のくらし館民俗資料
 見学無料です
昔のくらし館民俗資料 昔のくらし館民俗資料

赤目四十八滝

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布曳滝布曳滝
 赤目五瀑と呼ばれる不動滝・千手滝・布曳滝・荷担滝・琵琶滝は景観美がよく必見です

 約4kmにわたって様々な滝が現れる滝川上流の渓谷です
 (行者滝、銚子滝、霊蛇滝、不動滝、乙女滝、大日滝、千手滝、布曳滝、縋藤滝、陰陽滝、姉妹滝、柿窪滝、笄滝、雨降滝、骸骨滝、斜滝、荷担滝、夫婦滝、雛段滝、琴滝、琵琶滝、岩窟滝)などが有ります

 「赤目」の名の由来は、修験道の祖・役行者が、赤い目をした牛に乗った不動明王を見たという伝承によるものとされます
 紅葉や新緑の頃は特に観光客でにぎわいます

★所在地;名張市赤目町長坂861-1
★交通;近鉄赤目口駅より バスで赤目滝下車 徒歩
★駐車場;有ります(有料)
★見学 入場料;大人400円
★休館日;12月28日~12月31日(日本サンショウウオセンター)
★開館時間;(4/1~11/30)8:30~17:00、(12/1~3/31)9:00-16:30
★問合せ;赤目四十八滝ホームページ


 撮影日;2014.11.23
じゃんじゃん水 大さんしょううおセンターじゃんじゃん水は湧き水です  入口には大さんしょううおセンターが有ります
行者滝 川中のモミジ
最初に現れる滝が行者滝です  川中のモミジ
霊蛇滝 上から見た霊蛇滝
霊蛇滝上から見た霊蛇滝
不動滝 上から見た不動滝
不動滝上から見た不動滝
乙女滝 赤目渓谷の紅葉
乙女滝赤目渓谷の紅葉
千手滝 千手滝全景
千手滝千手滝全景
赤目渓谷の紅葉 竜ヶ壺
赤目渓谷の紅葉竜ヶ壺
陰陽滝下段 陰陽滝上段
陰陽滝下段陰陽滝上段
百畳岩付近 七色岩
百畳岩付近七色岩
姉妹滝 柿窪滝
姉妹滝柿窪滝
笄滝 横から見た笄滝
笄滝横から見た笄滝
赤目渓谷の黄葉 赤目渓谷の紅葉
赤目渓谷の黄葉赤目渓谷の紅葉
骸骨滝 斜滝
骸骨滝斜滝
荷担滝 荷担滝
雛段滝 夫婦滝
雛段滝夫婦滝
琵琶滝 上から見た琵琶滝
琵琶滝上から見た琵琶滝
上からみた岩窟滝 岩窟滝
上からみた岩窟滝岩窟滝

長岳寺奥の院横の古墳

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12C-96奥壁
 群中最も高所に有る横穴式石室墳です 撮影日;2014.11.30

 竜王山古墳群の一基(遺跡地図の「12C-96」)です
 やや孤立して存在
 長岳寺奥の院の不動石仏から北へ60m程の所に開口しています

 径15mほどの円墳で、山道の北側、笹薮の中に有ります
 開口部は笹竹で覆われ、見過ごしやすいです
 (以前訪問時には全く気づきませんでした)

12C-96開口部 12C-96羨道

 羨道も大きく、長2mほど(元はもっと長かったと思われます)
 比較的楽に入室できます
 玄室長約4m・幅約1.6m・高さ約2.5m
 持ち送りは、あまり見られません 

12C-96袖部 12C-96天井

★所在地;天理市柳本町宿ノ谷
★交通;長岳寺より 2kmほど
★駐車場;長岳寺又は崇神天皇陵に無料P有り
★見学;自由
★問合せ;


長岳寺奥の院
長岳寺奥の院入口 長岳寺奥の院不動
 ↑↑ここから北へ約60mほど行くと石室が開口しています

「12C-150」竜王山古墳群

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12C-150玄室
 登山道脇の石室です 撮影日;2014.11.30

 羨道は破壊されていますが、玄室はほぼ完存しています
 径10mほどの円墳と思われます

 玄室長3.5mほど・幅1.5m・高さ3mほどの天井の高い石室です
 両袖式の横穴式石室です
 玄門の下に閉塞石らしき石材が残っています

 ↓↓遺跡地図の「12C-150」
12C-150 12C-137
 
 少し登っていった登山道の右手に玄室奥の天井部分が大きく開いた古墳↑↑が有ります
 「12C-137」です
 開口部は西側ですが、羨道部はほとんど埋まっています
 幅2m弱、高さ2.5m、玄室長4m程
 両袖式で、やや持ち送りのある石室です

12C-137開口部 12C-137玄室内
 
 「12C-150」の少し下にも石室の側壁が露出しています
 「12C-10」だと思います 

★所在地;天理市柳本町芝尾(N;34.33.19 E;135.52.14) MAP
★交通;竜王山古墳群を通る登山道の中間辺りに有ります
★見学;自由
★問合せ;


竜王山城跡【北城】

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竜王山城跡【北城】主郭
  撮影日;2014.11.30

 北城は南城より約60mほど低く、大規模な平坦面が残っています

 天文年間(1532~55)十市遠忠が築いたと伝えられ、十市城とも呼ばれます
 のち、秋山氏が侵出し、十市氏は山麓の十市城(十市城跡)に移りました
 その後、竜王山城は松永久秀の支配下となり、北城を中核に大きく改修されます
 本丸を中心に時の丸・辰巳の櫓などの曲輪が築かれ、虎口・堀切・竪堀・石垣など大和屈指の山城となりました
 北東に設けられた空堀は、土塁を組合わせた見事なものです
 往時は石塁であったと推定され、城址最大の見どころです

堀跡 石垣跡

 竜王山城は、戦国時代、筒井氏・越智氏・箸尾氏と並んで大和四家に数えられた大名十市氏の築いた壮大な山城です
 山頂の南城と北尾根の北城からなります 

 別々の城が一つの城を形づくる連郭式山城です
 南城と合わせると、面積としては信貴山城を抜いて大和一の中世城郭となります

竜王山城跡【北城】図
★所在地;天理市田町
★交通;近鉄柳本駅下車 徒歩90分
  車:県道247号線を天理ダムから南下 藤井町への分岐を右へ
★駐車場;有ります(無料)
★見学;自由
★問合せ;


 北城本郭跡からの眺め
竜王山城跡【北城】眺望
 北城・南城からの眺望は抜群で、とくに南城の本丸からは快晴の日には明石大橋が見えるそうです

「12C-86~89」竜王山古墳群

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12C-86
 群中で、最も高所に有る支群です 撮影日;2014.11.30

 十数基有りますが、開口している古墳は少ないです
 また、この支群にたどり着くのもたいへんです(明確な道が有りません)
 
 南側の斜面に3基並んで開口しています
 いずれも竪穴系横穴式石室です(羨道部から、玄室が少し落ち込んでいます)

12C-86奥壁 12C-86袖部

 「12C-86」は奥壁に巨石が使われています
 倒木が開口部を覆っていますが入室できます
 持ち送りはあまり無く、比較的広い玄室です

12C-86開口部 12C-86天井

 「12C-87」は径15mほどの円墳
 背の高い玄室を有しています
 開口部が狭く、入室できませんでした(高さ2.5mほど?) 

12C-87 12C-87石室内

 「12C-89」は比較的大きな墳丘です
 入室できますが、かなり土砂が入り込んでいます

12C-89石室内 12C-89袖部

★所在地;天理市柳本町火燈(N;34.33.19 E;135.52.25)
★行き方 <迷子にならないようにGPSを持って行きましょう>
 竜王山城址から古墳群を通るコースを降りてきて
 長岳寺奥の院への分岐からさらに少し下ると、左手に丸太が何本も横たわっている場所が有ります
 その辺りを左手へ
 谷を回り込むようにして、南側の尾根に出ます
 尾根伝いに古墳が並んでいます

「11D-237」竜王山古墳群

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11D-237墳丘
 とても大きな横穴式石室を有しています 撮影日;2014.11.30

 竜王山古墳群の中で、ほぼ完存する横穴式石室のうち、おそらく最大規模の石室だと思います
 尾根の最高所に築かれた径約15mの円墳です

 とても丁寧に築かれた、両袖式横穴式石室です
 羨道長約5m・高さ1m
 玄室長6m・幅約1.7m・高さ約2.8m
 玄室内には土砂が流入しているので、3m以上の高さがあると思われます
 (いずれも目測の数値です)

11D-237奥壁 11D-237袖部

 持ち送りは余見られない石室で、長岳寺奥の院横の古墳「12C-96」と似ています
 床の土砂下には、石棺材が埋もれているかもしれません
 「11D-238」を目指して登っていったのですが、「11D-237」のようです

11D-237開口部
★所在地;天理市柳本町高槻
★南側から無理やり登っていって、ほとんど偶然に見つけたので、行き方は? 

竜王山古墳群の横口式石槨墳

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11D-198石室内
 石材はかなり抜かれています 撮影日;2014.11.30

 遺跡地図の「11D-197~199」です
 盗掘を受け、墳丘はかなり崩されています
 尾根上の林道沿いに円墳?が三基並んでいます

 真ん中の古墳「11D-198」が、横口式石槨墳のようです
 径8mほどの小さい古墳です
 直方体に加工された石材が積まれています 

11D-198
 東隣の古墳「11D-197」は双室墳だったでしょうか?
 二列並んで盗掘穴が有ります

 西隣の古墳「11D-199」は盗掘穴にわずかに石材が残っています
 11D-197 11D-199

★所在地;天理市柳本町スベリ石
★行き方;?
 「11D-237」から山内を東へさ迷っていて見つけました
 つまり、迷ってしまって偶然に見つけたわけです
 その尾根道から谷道へ降りて西へ行くと崇仁天皇陵の北側へ出てきました

福塚古墳

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福塚古墳
 和束天満宮参道の西側の畑にあります 撮影日;2014.12.07

 径25m・高さ5mの円墳です

 北東側に竪穴式石室が露出しているそうです
 現状は熊笹に覆われ、墳丘への立ち入りはかなり困難です
 築造は古墳時代の中期と推定されています

北から見た福塚古墳

★所在地;相楽郡和束町園箕ノ田
★交通;JR加茂駅より バスで東和束下車 徒歩1分
★駐車場;有ります
★見学;自由(墳丘への立ち入りは困難)
★問合せ;

和束・弥勒磨崖仏

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和束弥勒磨崖仏
 和束川北岸に彫られた大きな石仏です 撮影日;2014.12.07

 約5m×5mの巨岩に二重光背型を約20cm彫りくぼめ、高さ3.3mの弥勒立像を半肉彫りしています
 正安2年(1300)4月の銘が彫られています

刻銘:「為尼法阿 同子万寿丸 僧実専等 往生仏国 奉彫之 願主実専 正安二年四月日 当釈迦牟尼仏滅度之後 二千二百余歳比」

和束川弥勒磨崖仏 和束川

 和束川を覗き込むように、川の北岸の巨岩(御影石)に彫られた立像磨崖仏
 往古は鷲峰山「金胎寺」に至る参道にあたり、行場であったと伝えられます

 弥勒磨崖下を流れる和束川は、激流中となって流れています
 弥勒磨崖仏の前に足場が有りますが、危険な為、通行止めされています 

★所在地;相楽郡和束町白栖備中平
★交通;JR加茂駅より バスで白栖口下車 徒歩5分
★駐車場;近くにスペース有り(2台程度)
★見学;自由
★問合せ;

和束・坂尻塚1・2号墳

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坂尻塚1・2号墳
 竪穴系横穴式石室墳が2基、見学できます 撮影日;2014.12.07

 1号墳は、径12mの円墳です
 封土はかなり流失し、横穴式石室の天井石が露出しています
 石室は奥壁側が開口していて、現存長3.7m・幅1.5m
 羨道は西側に有りますが、埋まっています

坂尻塚1号墳奥壁 坂尻塚1号墳羨道部

 2号墳は、径9mの円墳です
 墳丘は半壊していますが、石室は良く残っています
 羨道は埋まっていますが、玄門上部がわずか紀開口しています 
 現存長3.7m・幅1.2m

坂尻塚2号墳 坂尻塚2号墳奥壁

★所在地;相楽郡和束町撰原坂尻
★交通;JR加茂駅より バスで白栖口下車 徒歩10分
 県道5号線から坂尻集落を南に登っていくと、右手に[坂尻塚古墳/旧信楽街道]の小さな看板が有ります
★駐車場;スペース1台程度
★見学;自由
★問合せ;


坂尻塚1・2号墳入口 坂尻塚1号墳

神童子天神社の十三重石塔

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天神社の十三重石塔
 国の重要文化財に指定されています 撮影日;2014.12.07

 境内西北端の木立の中、玉垣に囲まれて立っています
 この十三重石塔は、基礎に鎌倉中期 建治三年(1277)の銘があり、この時代の基準となるものです

初層軸部南西 初層軸部北東

 初層軸部に、二重円光形に彫り窪め、顕教四仏を半肉彫りしています
 北面のみ弥勒仏に代わって、右手に錫杖・左手に宝珠を持った地蔵菩薩が刻まれている
 鎌倉時代中期以降に顕教四仏の南面(釈迦)か北面(弥勒)を地蔵菩薩にしたものがあらわれるが、天神社はその早期の例で、地蔵信仰が持ち込まれたものです 

★所在地;木津川市山城町神童子不晴谷177
★交通;JR棚倉駅下車 徒歩50分
★駐車場;有りません
★見学;自由
★問合せ;

北河原・稲荷山古墳

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平尾稲荷山古墳
 古墳の上に稲荷神社が建っています 撮影日;2014.12.07

 径約33mの円墳です(平尾稲荷山古墳とも言われます)
 葺石・埴輪が有ったことが確認されています

 埴輪はⅡ期の鰭付円筒埴輪で、古墳時代前期後葉に位置づけられます
 平尾城山古墳の後に築かれたようです

 鳴子川の北岸に位置し、ここは今城跡です
 弥生時代の遺跡でも有ります

平尾稲荷神社境内 平尾城山古墳

 社殿の後方に竹薮があり、平尾城山古墳が有ります
 かなり改変されていて、墳形は分かりづらくなっています

 南西に主軸を持つ全長110mの前方後円墳です
 後円部直径70m・高さ11.5m、前方部幅約38m
 墳丘には葺石、埴輪が有りました

 後円部には竪穴式石室1基、粘土槨2基が確認されています
 石室は盗掘のため破壊されていましたが、全長7.5m、幅1.7mの粘土床が残存
 割竹形木棺が納置されたと推測されています
 副葬品は彷製三角縁神獣鏡の破片・石釧6個体分・鉄鏃33本(定角式2本、鑿(のみ)頭式31本)・鉄剣・鉄飽・鉄壁が出土
 墳頂肩部に埋葬主体を円形に囲続する埴輪列が検出されています
 円筒埴輪・朝顔形、家形・鶏形の形象埴輪があり、円筒埴輪の型式的特徴からⅠ期に位置づけられます

北谷2号横穴 北谷2号横穴内

 参道下の岩肌に横穴が有ります
 北谷2号横穴です
 4基有ったようですが、現在は1基のみ開口(木柵がされていて入れません)しています

★所在地;木津川市山城町北河原北谷
★交通;JR棚倉駅下車 徒歩15分
★駐車場;なし
★見学;自由
★問合せ;

精華町丸山古墳

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精華町丸山古墳遠景
 野見宿禰の墓との伝承が有るようです 撮影日;2014.12.07

 精華中学校の北に有る大きな古墳です
 径100m・高さ12mの円墳とされます
 前長250m、墳丘長174mの前方後円墳だとする説も有ります
 前方部とされる所(東側)は幼稚園や商工会議所になっています
 西側は駐車場になっています(周濠跡と思われます)

精華町丸山古墳南側 精華町丸山古墳北側

 古墳の中腹に「伝 野見宿禰塚」の碑が建っています
 (現状、墳丘への立ち入りはかなり困難です)
 宿禰の禰の字が称の旧字体で誤って彫られているそうです
 この石碑は三宅安兵衛という京都で帯問屋を営んでいた人の遺訓により建てられたそうです
 三宅安兵衛は、京都府下におよそ400基以上の道標や石碑を建てたそうです 

★所在地;相楽郡精華町南稲八妻丸山
★交通;JR・近鉄祝園駅下車 徒歩4分
★駐車場;近くに精華町役場有り
★見学;外観のみ
★問合せ;

鞍岡山古墳群

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鞍岡神社
 鞍岡神社の社殿は、鞍岡山4号墳の上に建っています 撮影日;2014.12.07

 4号墳は径30mほどの円墳でしょうか
 ほとんど平削されていてます

 1号墳は径25mほどの円墳と思われます比較的良好に墳丘が残っています
 古墳時代前期末の築造

鞍岡山1号墳
 2号墳はバイパス工事で南半分が消失しています
 東西方向が30m、南北方向が20m以上の円墳
 高さは3~3.5m
 幅1mほどの周濠あとが見れます(空濠のようです)
 2009年に調査されています
 主体部は7.4m×3.4m×1.6mの巨大な墓壙に二基の割竹形木棺が並べて埋葬されていました
 西棺は長さ6mで、盗掘のため副葬品はなく、棺外に鉄剣が五本並べられていました
 東棺は長さ5m、未盗掘で国産の青銅鏡、管玉、勾玉が副葬されていました
 棺外には臼玉、勾玉、ガラス製小玉が置かれていました
 これらの副葬品の状況から、西棺は古墳の主で武人として活躍した男性、東棺は女性が被葬者と考えられます
 古墳時代中期初頭の築造

鞍岡山2号墳
 鞍岡山3号墳は径40m・高さ6.5mの円墳だそうです
 2004年に調査されていますた
 南山城最大の円墳で、段築はなく、まんじゅうのように丸い斜面を地山を削りだして造られています
 墳丘表面を粘土で覆い、そこに川原石を差し込んで葺石としているので、葺石の保存状態がかなり良好でした
 墳頂には大きな盗掘坑がありましたが、粘土槨はかなり遺されているようです
 墳頂部には円筒埴輪列の基底部が現位置で残っていました
 また、墳丘北側の平坦部にひょうたん型の島状遺構を検出
 高さ30cmくらいで低い墳丘と葺石が施されています
 巣山古墳と類似しており、何らかの祭祀の施設と考えられます
 内容、保存状態ともに優れた注目すべき古墳です
 築造は古墳時代前期後半 

★所在地;精華町下狛
★交通;JR・近鉄下狛駅下車 徒歩5分
★駐車場;有ります
★見学;自由
★問合せ;


 参考;八幡木津線関係遺跡(鞍岡山2号墳・下馬遺跡・片山遺跡)

荒神塚池

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荒神塚池
 山田川駅の南側、川が合流する所に比較的大きな池が有ります 撮影日;2014.12.07

 池の南側に小さな丸い島(塚)が有ります

 何か謂れがありそうな場所なので立ち寄ってみました
 北西側で道が交差していて、昔から交通の要所であった所かもしれません

 『古事記』によると、丹波の王女四人が垂仁天皇に召されたが、二人の姫はみにくき故に帰されたという
 その一人の円野姫はそれを恥じて木の枝にかかって死のうとしました
 その木をさがりきと言い、その地をさがらかと言ったと記されています
 相楽の地名の由来とされます

 また『日本書紀』には、丹波の王女の竹野姫が容貌の醜さから帰されたことを恥じ、荒神塚池で首をつろうとしたが死ねずに平野で自殺をした
 平野の人々が姫を運びこの地に葬ったのでこの地を姫子という
 姫子橋にその名が残っています

★所在地;木津川市相楽荒神塚
★交通;近鉄山田川駅下車 徒歩3分
★駐車場;有りません
★見学;自由
★問合せ;

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