現在はのどかな農地となっています 撮影日;2007.1.31
永久2年(1134)に鳥羽天皇の勅願により、興福寺大乗院第2世頼実が創建
中世には興福寺の末寺となり、南北朝の頃には後醍醐天皇が京都花山から吉野へ落ち延びる際に一時入寺して「萱の御所」とされました
江戸時代には971石の朱印地を与えられ、大和では東大寺、興福寺、法隆寺に次ぐ待遇を受けていたようです
盛時には50以上の堂塔が並ぶ大寺院でした
明治の廃仏毀釈の嵐の中で廃寺
(古義真言宗)内山 金剛乗院「永久寺」と称し、阿弥陀如来を安置していたそうです
★所在地;天理市杣之内町内山方
★交通;JR・近鉄天理駅より 徒歩40分
★駐車場;有りません (石上神宮の無料駐車場より15分ほど)
★入場料;見学自由
★問合せ;0743-63-1001(天理市商工観光課)
石上神宮の南10分弱の所にあり、神宮寺でもあったようです
石上神宮摂社「出雲建雄神社」の割拝殿(国宝)は、内山永久寺の鎮守だった住吉神社拝殿です(1914年に移築)
参考;内山永久寺の廃寺
再訪;2013.12.14 編集;2013.12.20
永久寺跡の池の畔に芭蕉句碑が建っています
「うち山やとざましらずの花ざかり」 宗房
松尾芭蕉が出生地の伊賀上野に住み「宗房(むねふさ)」と号していた、その頃の作
芭蕉が23〜24歳ごろに詠んだ句と推定されています
句の意味は、「内山永久寺の参詣に来たが、外様(よその土地)の人にあまり知られていない桜が今を盛りに満開に咲き乱れていることよ」
寛文10年(1670)に刊行された『大和巡礼』という本に収録されているそうです
説明板や伽藍絵図から少し南に高見台が有ります
登って往時を思ってみますか
永久2年(1134)に鳥羽天皇の勅願により、興福寺大乗院第2世頼実が創建
中世には興福寺の末寺となり、南北朝の頃には後醍醐天皇が京都花山から吉野へ落ち延びる際に一時入寺して「萱の御所」とされました
江戸時代には971石の朱印地を与えられ、大和では東大寺、興福寺、法隆寺に次ぐ待遇を受けていたようです
盛時には50以上の堂塔が並ぶ大寺院でした
明治の廃仏毀釈の嵐の中で廃寺
(古義真言宗)内山 金剛乗院「永久寺」と称し、阿弥陀如来を安置していたそうです
★所在地;天理市杣之内町内山方
★交通;JR・近鉄天理駅より 徒歩40分
★駐車場;有りません (石上神宮の無料駐車場より15分ほど)
★入場料;見学自由
★問合せ;0743-63-1001(天理市商工観光課)
石上神宮の南10分弱の所にあり、神宮寺でもあったようです
石上神宮摂社「出雲建雄神社」の割拝殿(国宝)は、内山永久寺の鎮守だった住吉神社拝殿です(1914年に移築)
参考;内山永久寺の廃寺
再訪;2013.12.14 編集;2013.12.20
永久寺跡の池の畔に芭蕉句碑が建っています
「うち山やとざましらずの花ざかり」 宗房
松尾芭蕉が出生地の伊賀上野に住み「宗房(むねふさ)」と号していた、その頃の作
芭蕉が23〜24歳ごろに詠んだ句と推定されています
句の意味は、「内山永久寺の参詣に来たが、外様(よその土地)の人にあまり知られていない桜が今を盛りに満開に咲き乱れていることよ」
寛文10年(1670)に刊行された『大和巡礼』という本に収録されているそうです
説明板や伽藍絵図から少し南に高見台が有ります
登って往時を思ってみますか